ほろすけブログ

ほろすけ的に「こうやって考えると楽になるかも」って考え方のご紹介☆

断捨離の習慣から気づいた日記の存在の危険性

こんにちは!ほろすけです。

前回、断捨離から受けた3つの恩恵についての記事を書きました。
今回は更に、中でも自分にとって何よりも必要だった断捨離があったことを思い出したので
そのことをお伝えしてみたいと思います。


日記をつける習慣の大切さ


先ずその前にお話しておきたいのが、ブログタイトルにもあります通りのこの「日記を付ける習慣」についてです。


筆者はかれこれ20年、日記をつける習慣を続けています。
短いときは1行~3行、長いときはもう自分の手がロボットになったかのように
留まるところを知らずにダダダダダーーーー!っと書き続けてしまうことも。


元々手書きでつけており、現在もできる限り手で書くようにしていますが
留まりそうにないなと事前に感じる時は、パソコンでワードを使っています。


その甲斐あって(?)ただ今絶賛腱鞘炎です。皆様くれぐれもご注意を…(闇)


なぜそうまでしてでも日記をつける習慣を続けてきたかと言いますと、
過去の日記を振り返ることによって自分を客観視することができるからです。


今日初めて気がついたことがあったとすると、それが自分をものすごく成長させてくれたかのように感じます。
ところがどっこい、あら不思議、次の日になって改めてその「気づき」について思い返すと
感銘を受けたその時の自分が恥ずかしいと思うくらい、「なんでこんな当たり前なことにこんな長い間気づかなかったんだろう」と落ち込まされる。
そんなことが以前は多々ありました。


いまでこそ、そういった現象が起こることですら「当たり前」になり
何も感じなくなりましたが、若い時の自分はまあそんな無知だった昨日までの自分を、恥じて、恥じて、恥じ抜いたものです。


そう、若い時ほど「気づいた自分すごい!」「気づけて良かった!」なんて
自分が大きく成長したかのように変な自信がついていました。
周りの賢明な方達はとっくに気づいて更に更に先へ行っていたことにも気づかずに。


今でこそ、自分が基準なんだから仕方が無い、それに昨日の自分より成長できたならもうそれだけで“今日という日を生きた意味があった”なんて前向きに捉えられるようになりました。


断捨離から受けた最大の恩恵

 

さて、そんな形で日記はめでたく筆者にとって自分を客観視するツールとなったわけですが、
その反面、あまりの自分のダメっぷりに酷く悩まされる時期もありました。


日記を読み返すことは、自分の身の丈を知る良い機会でもあり、
その分「なんてダメな人間なんだ」と思えて仕方がなくなることも
ネガティブ思考だった筆者には多々ありました。


日記をつける習慣、それを読み返して過去の自分を振り返る習慣。
それ自体は今後も続けていこうと思っています。


しかし断捨離を繰り返すうちに気がついた、自分にとって一番必要な断捨離。
それは、「過去の自分」を「今の自分」から切り離すことでした。


良い事も悪いことも過去から学び、自分がこれからどういう人生を生きたいか、どんな人間でありたいか。
それはこれからも形成され続けることであり、過去は常にリセットされていると筆者は考えています。


過去を消すことはもちろんできません。しかし、過去に引きずられて今が幸せでなくなるのでは、過去を生きた意味すらない。


「いまの自分を不幸にするような過去こそ、自分に一番必要な断捨離だ!」


と、断捨離を繰り返すうちに気がつき、そこからまた更に前向き度が増したように感じます。
何もなかったことにする、という意味ではなく、あくまでも「何を学んだか」をプラスに変換する。


迷惑をかけてしまったり、嫌な思いをさせてしまった方に1人1人会って謝罪することはできません。
そのため、これまで出会った全ての方に感謝しながら、これから自分にできることを探し続ける。


ひたすら自分の幸せにフォーカスし続ける。


…どうやらいつもの悪い癖でまた言いぐさが宗教めいてきたので、この辺で自重致します(礼)