ほろすけブログ

ほろすけ的に「こうやって考えると楽になるかも」って考え方のご紹介☆

日記の習慣から学んだ自分を客観視することの重要性

こんにちは!ほろすけです。


昨日、日記を付ける習慣について軽く言及したことから
日記について語りたい欲に火がついてしまったようです。


中でも、「自分を客観視できるようになった」部分について
今日はより具体的に書いてみたいと思います。


そもそもなぜ客観視する必要があるのか?

筆者が日記を付け始めたのは、小6の時でした。
当時たまたま持っていたお料理ノートか何かの右端に、「メモ」の記載欄があり
何を思ったか、そこにその日の気分やらを3行程度書く習慣を始めていました。

当時はただ書き留めるだけで、特別それ以上のことはしていませんでした。
そのノートもしばらく放置されていましたが、高1になったある日のこと、
部屋を片付けている際にたまたま見つけて、そこで初めて読み返してみました。


その時です。筆者の身に戦慄が走ったのは。


まだまだ純粋で、世間の悪も良く知らないはずの12歳の自分が書いた文章は
マックロクロスケも真っ青の(ややこしい)かなり腹黒い内容のものでした。


どんな内容だったか詳細こそもう忘れてしまいましたが、とにかく
それはそれはゾッとしたことだけは今でもはっきり覚えています。


「え、誰これ、自分?こんなに性格悪そうな真っ黒なこと書いてるの、これが自分??(恐怖)」


これが自分だととても信じられない、いや信じたくない、それくらいの内容が書き綴られていました。
しかしその当時(小6)の自分としては、その日記の中以外に自分の黒さを発散できる場所がなかったのです。友達少なかった&コミュ障だったから…(小声)


このままではまずい…自分を正さねば…


高1の自分は、自分でも知らない間にスクスクと育ってしまっていた内なるピッコロ大魔王を
どうにかして封じ込める魔封婆習得の訓練を始めようと、その日記を通じて決意しました。


しかし自分をコントロールするということはそう簡単に習得できる技ではなく、ましてや
「人に言うべきじゃないのはわかっている、でもどこかに発散しないと自分を正しく律することができない」

そんな理由から始まった筆者の日記は、結局随分長い間、他に吐き出す場所のない愚痴の宝庫となっていました。


良い事に気づけたときや良い事があった時こそ幸せな記録を残しておけるものの、
日記を書きたい欲に駆られる時は、基本的に「吐き出し場所のない愚痴」を吐き出すためのツールとなっていました。


しかし長年のトレーニングを重ね、多くの方との出会いと様々な教えを頂いたおかげで
ようやく日記を上手く使いながら自分の考え方をまとめ、自分自身・そして周りと上手く付き合えるようになっていきました。


それがなければ自分の中の輩がそのまま放置されていた危険性すらあるかと思うと
想像しただけでもまあそれはそれは恐ろしいものです…


それくらい、今の自分にとって日記はある意味「精神安定剤」とも呼べる役割を担ってくれているように感じます。

 

日記が自分の全てではない


自分を客観視するための日記の習慣は、筆者にとって非常に役立つツールとなったのは事実です。
しかしここで一番気をつけておきたいのが、「日記の中にいる自分が自分の全てではない」ということです。


身の程をわきまえて自分をコントロールするということは、周りの人と良好な関係を保つために大切な技術だと感じていますが、
その反面、日記によって自分のダメさ加減に異様に引きずられて、自信をなくしてしまいかねない危険性を兼ね備えているように思えます。


昨日のブログにも書いた通り、過去の自分は常にリセットすることができます。
これは断言できます。

 

人に嫌われるようなことや嫌な思いをさせることを繰り返し、そんな自分をひたすら嫌ってきた筆者ですが
そんな「過去の自分」に引きずられて現在を生きることこそ危険なのだと痛感しています。


とにかく自分の幸せに目を向けることで、自分の内なる輩を押さえ込む。
そこで初めて自分の中に余裕ができて、ようやく他の人に優しく接することができ、そこから正しい行いに繋げられる。それが社会の平和に繋がるんだと思いました。


こんなブログもただの自己満足でしかありませんが、ほんの0.00001%でも良い、どこかで何かの役に立てたら。


ただただその思いです。