ほろすけブログ

ほろすけ的に「こうやって考えると楽になるかも」って考え方のご紹介☆

思い切って旅立った結果

全てを捨てる勢いで。

ここで自分の全てが終わっても何一つ後悔はないという覚悟で。

現地の言葉もろくに話せず、知り合いも誰1人いない異国の地へと旅立った自分。

今思えば、とんでもなく無茶でした。

いつどこで危ない目に遭っていてもおかしくなく、
実際に危険な出来事もいくつかありました。

それでも、あの時の自分にとってはそれが人生を後悔しない唯一の選択肢でした。

無事に帰って来られたのも、今現在こうして生きていられるのも
ただの偶然、ラッキーでしかない。

でも当時はそんな有り難みすらどうでも良く、ただただ生きるのが辛かった。

だから最後に、悔いの無いようにやりたいことをやっておこう。

それが、海外へ飛び立つことでした。

結果論にはなりますが、そんな無茶な選択も
今となってはなくてはならないものでした。

絶望の淵にいた自分の人生観は、その渡航先で大きく変えられることになります。


現地で出会った人達は、正に自分のために自由に生きていました。
休みのために働いて。
無理はせず、できないものはできないとしっかり意見を主張する。

友達や家族、恋人と食事をしながら会話をすることを
1日の1番の楽しみにしている。

私が渡った異国の地は、ヨーロッパのとある所だったのですが
二十歳の時に一度だけ旅行で行ったことがあり、
それ以来すっかり憧れて、いつかまた行けたら…と夢見ていました。

でもそう夢見ながらも、本当に行けるとは思っていませんでした。
実現させようと思っていなかった、と言う方が正しいかもしれません。

それが、「人生の最後にやるなら何か?」という
若干大げさなくらいの勢いがあって初めて
実現へと動き始めました。

仕事を辞めたあと、あの場から離れられたというだけでも
随分と気持ちが軽くなり、勢いで決めたとはいえ
そこから「またあの地へ行けるんだ」と思うだけでも
日常の世界が大きく違って見えていた気がします。

飛行機に乗ることさえ慣れずに緊張していたものの、
着陸間際に上空からあの日本では見られないような大地を
再び目にした瞬間の感動は、何年も経った今でも覚えています。

日本にいる間に代理店の手伝いを借りてビザを取得し、
1ヶ月だけ通うための学校とホームステイ先を手配してもらいました。

そこから先は自分次第。
ワーキングホリデービザだったので、仕事やホームステイ後に住む場所は
全部自分で探さなくてはいけません。

とりあえず学校とホームステイで1ヶ月間過ごせる保証はあったため、
あとは肝心の仕事がちゃんと決まるかどうかで
その先いられるかも決まるという状況でした。

これもまた日本にいる間に、インターネットや知り合いの紹介を通じて
現地に着いてから面接をしてもらえるお店をいくつか見つけてあったので
着いてからまずは学校とホームステイが始まり、
また面接もすぐにしてもらい、そのまま即決してもらえて
無事ワーホリ生活のスタートは切れました。

しかし…


まずホームステイ先では母親ほどの年齢の女性が一人暮らしで、
また学校のクラスは自分を含めて多い時でも10人程度という小規模で
出会った人達はみんなとても良い方だったのですが、
私が言葉をほとんど喋れない上に引っ込み思案な性格だったこともあり
家や学校ではコミュニケーションが上手く取れず…

仕事は全員日本人の日本食レストランだったのですが
そこでもやはり難ありな自分の性格が原因で
周りと上手く接することができず、苦しむ場面が多々ありました。

やっぱりどこへ行っても、自分が自分である以上
何も上手くいかないのか…


そんなネガティブな感情に引き続き悩まされたりもしていたのですが、
とはいえそこは異国の地。

日本にはない建物や公園、景色や人々など
目に入るあらゆるものが新鮮で、ちょっと外へ出て歩けば
そんなネガティブな気持ちも一瞬で吹き飛ぶくらい
とにかく刺激的な生活を送っていました。

人間関係も、慣れてくるにつれ周りとも親しくなって
職場の仲間とはプライベートで遊びに行ったり
ネットを通じて新しい友達ができたりもして
徐々に楽しさで溢れていきました。

そこへ行く直前まで考えられなかった環境の激変に
幸せを実感する毎日で、先のことなんかもどうでも良くなりました。

とりあえず、今という時間をただただ楽しもう。
そんな気持ちが日増しに強くなっていきました。

先のことを考えた上で今を楽しめるのが1番なのは理解していたのですが
当時の自分に見えていた未来はとにかく真っ暗で、孤独で…
希望の光なんて一ミリもなかったので、
考える価値すらないと思っていました。

そんな自分を周りから否定されるのがとにかく怖くて
その恐怖心からか、本当は気が弱いくせに
無駄に攻撃的かつ高圧的な態度を取ってしまったり。

自分の意見がそもそもないから、主張をしようにも
逆ギレみたいな態度になったり。
その反面、周りの人達がみんなしっかりしているように見えて
周りが言うことを鵜呑みにして、よく考えもせず
それが正しいんだ、なんて思い込んだりもしていました。

「なんでここへ来たのか」「今後どうしていくつもりなのか」という質問は
日常の会話で当たり前にあることだと思いますが、
当時の自分はそういった“自分のこと”を聞かれるのがとても怖かったのです。

人生に絶望して、もうどうでも良くなったから
最後に悔いのないようにと思ってここへ来た、
なんて言い方でしか、自分を表現できませんでした。

要は同情を誘うことでしか、自分を理解してもらえる方法がわからなかったのです。

自信がなくなると、そうやって負のオーラを全開にして
「私可哀想でしょ、だからこれ以上はもう攻撃しないでね」
というアピールを無意識にしていたのだと思います。

かと思えば、調子が良い時は人が変わったかのように偉そうな物言いで振る舞う…

そんな最低で面倒な人間から、離れていく人も少なくありませんでした。

自分でもそんな自分をいつまで経っても好きになれなかったし
客観的に自分が見えていないから、「何で私が話し始めると
誰も聞く耳持たなくなるのか?」「空気が凍ったようになるのか?」
「時には空気同然の存在になってしまうのか」…
よく起こるその現象の原因が、その時はまるで分かりませんでした。

とりあえず自分の何かが悪いんだな、と思わざるを得なかったにしても
じゃあ何をどうすればそれが改善されるのか。
当時を振り返ると、”気にしているだけ“で
ちゃんと考えるということができていなかったし、
勿論その答えをわざわざ教えてくれる人もいません。

自分で考えて、答えを出して、少しずつでも改善していくしかなかった。
でもそれをやっているつもりでも、なぜか空回り。

そんな自分に嫌気が差しながらも、気長に優しく付き合ってくれる人は
少なからずいたので、それがせめてもの救いでした。

そのおかげで、とにかくこれまでとは全く違う日常を
ひたすら楽しむことはできていました。

逃げだろうが無茶だろうが、思い切って出て来て本当に良かった。

身の程を痛感しながらも、前向きに新しい人生観を得て
自分をもっと大事にすることを学んで、そうしているうちに
ちょっとずつ次の目標や夢が見えてきました。

安全な道を歩み続けられればそれが1番かもしれない。
でも、危険だと思って渡ってみた橋も、
渡ってみれば意外と何とかなる。
そういったこともわかってきました。

そんな1年間を過ごして、無事にまた日本に帰ってきました。

100%安全な保証なんてどこにもないし、
いつ自分の人生が終わるのかもわからない。

だったら、周りに正しく評価されることを基準に生きるよりも
時には何もかも自分の都合の良いように考えて、
「自分は何をすれば自分を幸せにできるのか?」
を念頭に置いて選択してみれば
あんなに辛かった毎日も、結構楽しくなってくる。

もう他人中心に考えるのはやめて、良い意味で自己中に生きよう。

そんな捉え方ができるようになっただけでも、大きな一歩だったと思います。

「山ほど失敗したけど、挑戦し続けて良かった。」
そう思える人生にしよう。

そこでできた新しい目標は、また別の国へワーホリに行くこと。
そこでできた夢は、自分のお店を開くこと。

叶えられるかどうかはともかく、夢と目標ができただけでも充分でした。
そうして帰国した私は、また新たな一歩を踏み出します。

どん底だった人生は、ここから少しずつ少しずつ好転してはいくのですが…
まだまだやらかした話は続きます。苦笑


ここまで読んでくださり、ありがとうございました*。